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第4話 私の子ではない

Author: なつめ
last update publish date: 2026-07-28 11:25:48

「お姉ちゃんが、二十二年間一緒に寝てきた人」

 華帆の囁きが耳の奥へ入り込み、そこからゆっくりと身体中へ広がっていった。

 言葉の意味は分かる。

 けれど美琴の心は、理解することを拒んでいた。

 目の前にいるのは、三年前、玄関先で震えていた妹だった。

 母を亡くし、古びた鞄一つを抱えて、頼れる人はもう誰もいないと泣いた少女。父の写真を胸へ押し当てながら、美琴を見上げた大きな瞳は、行き場を失った子どものようだった。

 その妹が今、夫婦の寝室で征士郎の櫛を使い、美琴の耳元へ唇を寄せている。

「……嘘でしょう」

 ようやく出た声は、掠れていた。

 華帆は顔を離した。

 長い睫毛の奥で、瞳が細められる。

「どうして嘘だと思うの?」

「征士郎さんは、あなたの義兄よ」

「戸籍の上ではね」

 華帆は化粧台へ戻り、黒檀の櫛を指先で撫でた。

 持ち主の癖まで知っているような、馴染んだ触れ方だった。

「でも、私とお義兄さんには血のつながりなんてないでしょう。私がお姉ちゃんの妹だから、そう呼んでいるだけ」

「あなたは榊原家の養女です」

「それも、お義母さまが決めたこと。お義兄さんと結婚したわけじゃないわ」

 鏡の前に座った華帆は、自分の髪を一房持ち上げた。

 櫛の歯が淡い栗色の髪を滑り、細い音を立てる。

 美琴はその後ろ姿を見つめた。

 不自然なほど、よく似合っていた。

 寝室の色にも、化粧台の鏡にも、征士郎の櫛にも。

 華帆はすでに何度もここへ座っている。

 誰にも見つからないよう忍び込んだ人間の動きではない。隠す必要がなくなった場所で寛ぐ者の姿だった。

「いつからですか」

「何が?」

「征士郎さんと、そういう関係になったのは」

 華帆の手が止まった。

 櫛に絡んだ一本の髪を摘み、床へ落とす。

「私が二十歳になってから」

 悪びれる様子もなく答えた。

「少なくとも、そういうことをしたのはね」

 胸の中で何かが沈んだ。

「少なくとも、とはどういう意味なの」

「言った通りよ」

 華帆は鏡越しに美琴を見た。

「私が二十歳になる前から、お義兄さんは私のことを大切にしてくれていたもの」

「病気だったからでしょう」

 美琴は咄嗟に言い返した。

 声がわずかに大きくなった。

「あなたには治療が必要だった。体調を崩すことも多かったから、征士郎さんは家族として――」

「まだそう思いたいんだ」

 華帆が笑った。

 嘲るような大きな笑いではなかった。

 美琴の必死さを、幼いものとして眺めるような微笑だった。

「お姉ちゃんって、本当に自分に都合のいいことしか見ないよね」

「何を……」

「お義兄さんが病院へ連れて行ってくれたのも、夜中に部屋へ来てくれたのも、私が病気だから。服や宝石を買ってくれたのも、かわいそうな妹だから。二人で食事へ行ったのも、治療の相談があったから」

 華帆は一つずつ数えるように指を折った。

「全部、家族だからだと思っていたんでしょう?」

 美琴は答えられなかった。

 知らなかったわけではない。

 征士郎が華帆へ高価な服を買っていたことも、外泊を伴う検査へ自ら付き添っていたことも、美琴は知っていた。

 華帆が若い女性らしいものを何一つ持っていないのは不憫だと思い、美琴の方から夫へ頼んだことさえあった。

 好きなものを買ってあげてください。

 病院の帰りに、美味しいものを食べさせてあげてください。

 一人で不安にならないよう、そばにいてあげてください。

 自分の言葉で、二人を近づけていた。

「お義兄さんはね、私がお姉ちゃんの妹だと分かった時から、私を特別に扱ってくれた」

 華帆は立ち上がり、化粧台の引き出しを開けた。

 中から淡い桃色の口紅を取り出す。

 先ほど、美琴が洗面台の奥で見つけたものだった。

 華帆は鏡を見ながら蓋を外し、唇へ色を重ねた。

「この色も、お義兄さんが選んでくれたの。お姉ちゃんには似合わない色だからって」

 美琴の視線が、華帆の唇へ吸い寄せられた。

 征士郎が選んだ色。

 華帆が夫婦の寝室へ置いていた口紅。

「私に似合わないと、征士郎さんが言ったのですか」

「ええ」

 華帆は唇を軽く合わせた。

「お姉ちゃんは地味だから、こういう明るい色を塗ると無理をして見えるって。落ち着いた色の方が年齢に合っているって言ってた」

 美琴は自分の唇へ触れた。

 今朝つけたのは、薄い紅茶色だった。

 結婚して間もない頃、美琴も明るい色を好んでいた。けれど征士郎に、妻が目立つ必要はないと言われ、少しずつ選ばなくなった。

 服も同じだった。

 髪型も。

 身につける宝石も。

 美琴が手放してきたものを、華帆は夫から与えられていた。

「妊娠したことを、征士郎さんは知っているの」

「もちろん」

「いつ伝えたのですか」

「検査薬で分かった日の夜」

 黒い袋の中にあった二本の検査薬。

 華帆はこの部屋で結果を確認し、この部屋で征士郎へ伝えたのだろう。

「征士郎さんは、何と」

「喜んでくれたよ」

 華帆の声が柔らかくなった。

 ほんの少し頬を染め、腹部へ手を添える。

「最初は驚いていたけど、すぐに抱きしめてくれた。この子は必ず守るって言ってくれた」

 美琴は一歩退いた。

 背中が寝台の柱へ当たる。

 鈍い痛みが走ったが、身体の感覚は遠かった。

 征士郎が誰かを抱きしめ、この子を守ると誓った。

 自分には与えられなかった言葉だった。

「あなたは……自分が何をしているのか分かっているの」

「お姉ちゃんの夫を奪ったって言いたい?」

「夫だけではありません」

 美琴の声が震えた。

「この家へ迎えたのは私です。父の娘だと信じて、最後に残された家族だと思って……あなたが一人で苦しまなくていいようにと」

 三年前の冬が鮮明に蘇る。

 華帆は安い薄手の外套しか持っていなかった。美琴は自分の毛皮の襟巻きを首へ巻き、冷えた手を両手で包んだ。

 初めて屋敷へ入った夜、華帆は広い部屋では眠れないと言った。

 美琴は自分の寝室の隣にある客間へ布団を敷き、眠りにつくまでそばにいた。

 悪い夢を見た華帆が泣けば、夜中でも起きた。

 病院の診断書を読み、食事療法を調べ、治療費を工面するため会社の支出をさらに切り詰めた。

 父が生きていれば、きっと同じことをしたはずだと思っていた。

「私は、あなたを妹だと思っていました」

「私は今もお姉ちゃんだと思ってるよ」

 華帆は不思議そうに首を傾げた。

 その答えに、美琴は息を失った。

「こんなことをしておいて?」

「だから、何も変える必要なんてないでしょう?」

 華帆は美琴へ近づいた。

 腹部へ置いた手を大切そうに撫でている。

「お姉ちゃんが手術を受けてくれれば、今まで通り家族でいられるよ」

 美琴は華帆の顔を見た。

 本気でそう言っている。

 冗談でも、取り繕いでもない。

「今まで通り……?」

「お姉ちゃんはこの家の奥様。私は妹。お義兄さんは外では今まで通り、お姉ちゃんの夫でいればいいの」

「あなたは、その人の子どもを産むのでしょう」

「誰にも言わなければ分からないよ」

 華帆は声を潜めた。

「お義母さまは、榊原家に子どもができるなら喜んでくれると思う。戸籍のことは、お義兄さんが何とかしてくれるって言ってた」

「私に、その子どもを家族として育てろと言うのですか」

「お姉ちゃんは子どもが好きでしょう?」

 あまりにも無邪気な言い方だった。

「自分の子どもがいないんだから、きっと可愛がれるよ」

 胸を鋭いもので貫かれたようだった。

 美琴の指が寝台の柱を掴む。

「華帆」

「何?」

「今の言葉を、もう一度言ってみなさい」

 自分でも聞いたことのない声が出た。

 華帆の瞳がわずかに揺れる。

 それでも、すぐに唇を尖らせた。

「怒らないでよ。私は、お姉ちゃんにも悪くない話だと思ってるの」

「悪くない?」

「お姉ちゃんがこの家にいられるんだもの」

 華帆は美琴の袖を掴んだ。

「お義兄さんは、お姉ちゃんを追い出したいわけじゃないって言ってた。今まで通り家のことをして、会社も手伝ってくれればいいって」

「あなたと関係を持ちながら?」

「お義兄さんが必要としているのは私だけど、奥様として役に立つのはお姉ちゃんでしょう?」

 華帆の指が美琴の袖を滑り、手を握った。

 かつて助けを求めて縋ってきた時と、同じ仕草だった。

「だから、みんなで助け合えばいいの」

 甘えるように言う。

「お姉ちゃんは肝臓を少し分けるだけ。私は命をもらって、この子を産む。お義兄さんも失わずに済む」

 美琴の掌が動いた。

 乾いた音が寝室へ響いた。

 華帆の顔が横へ弾かれる。

 花形のイヤリングが美琴の手から落ち、絨毯の上で小さく跳ねた。

 二人とも動かなかった。

 美琴の右手には、打った感触が残っている。

 華帆の頬が見る間に赤くなった。

「……叩いた」

 華帆はゆっくり顔を戻した。

 目を見開き、頬へ手を当てる。

「お姉ちゃんが、私を叩いた」

 美琴は息を乱していた。

 胸が大きく上下する。

「それ以上、言わないで」

「どうして?」

 華帆の瞳に涙が浮かんだ。

 けれど、先ほどまでの計算された涙とは違って見えた。驚きと屈辱が混じり、唇が震えている。

「本当のことを言っただけなのに」

「その子を利用して、私から何もかも奪うことを助け合いとは言いません」

「奪ってない!」

 華帆が声を上げた。

「お義兄さんは最初から、お姉ちゃんのものじゃなかった!」

 寝室の外で足音が止まった。

 扉が勢いよく開く。

「何をしている」

 征士郎が立っていた。

 病院へ向かった時と同じ濃紺のスーツ。額には薄く汗が浮かび、呼吸がわずかに乱れている。車で待っていたはずの彼が、華帆を追って戻ってきたのだろう。

 華帆は征士郎を見た瞬間、肩を震わせた。

「お義兄さん……」

 弱々しい声へ戻っていた。

 征士郎の視線が、赤くなった華帆の頬へ向かう。

 次に、美琴の上げたままの右手を見た。

「美琴」

 低い声だった。

「君がやったのか」

 美琴は手を下ろした。

「華帆が、あなたとの関係を認めました」

 征士郎は答えない。

 華帆のもとへ歩み寄り、肩を抱いた。

「痛むか」

「少し……」

 華帆は彼の胸へ縋りついた。

 征士郎は赤く腫れ始めた頬へ指を触れ、傷がないか確かめる。その手つきには迷いがなかった。

 美琴が何度熱を出しても、転んで膝を傷つけても、これほど丁寧に触れられた記憶はなかった。

「征士郎さん」

 声が震えた。

 夫は顔を上げない。

「その子どもの父親は、あなたなのですか」

 沈黙が落ちた。

 華帆は征士郎の胸元を掴んだまま、美琴を見ている。

 怯えた妹の顔をしていた。

 だが、その目の奥には確信があった。

 この男は自分を選ぶ。

 美琴にも、それが分かった。

「答えてください」

 征士郎は華帆の肩を抱いたまま、ようやく美琴を見た。

 否定しなかった。

 驚きもしない。

 言い逃れを探す様子さえなかった。

「いつからですか」

「今、話すことではない」

「二十歳になってからだと、華帆は言いました」

 征士郎の眉が動く。

 それだけで、華帆の言葉が事実なのだと分かった。

「私たちの寝室へ、この子を入れていたのですか」

「華帆の体調が悪い時に、休ませたことはある」

「この部屋で妊娠検査薬を使わせたのですか」

 征士郎の目が、洗面所の黒い袋へ向いた。

 ほんの一瞬。

 その視線が、何より明確な答えだった。

 美琴は寝台の柱から手を離した。

 足元が不安定に揺れているように感じた。

「どうして」

「美琴」

「どうして、この家で、この部屋で……」

「落ち着きなさい」

「落ち着けるはずがないでしょう!」

 美琴の声が初めて大きく響いた。

 喉が裂けるように痛んだ。

「私は二十二年間、あなたの妻でした。父の会社を守るために結婚し、この家へ入り、子どもを失っても、会社が苦しくても、あなたと生きていくのだと思っていた」

 征士郎の顔から、わずかに煩わしさが滲んだ。

 その表情を見た瞬間、遠い記憶が開いた。

 白い病室。

 消毒薬の匂い。

 カーテン越しの淡い朝の光。

 十九年前、美琴は腹部を押さえながら、何度も征士郎を呼んだ。

 妊娠十二週だった。

 小さな命が宿ったと分かった日、美琴は父を亡くしてから初めて、心から笑った。征士郎も喜んでくれていると思っていた。

 けれど出血が始まった夜、彼は重要な会食があると言って病院へ来なかった。

 流産したと知らされた翌朝、病室に現れた征士郎は、美琴の髪を一度撫でた。

 またできる。

 そう言っただけだった。

「私たちにも、子どもがいました」

 美琴は自分の腹部へ手を置いた。

 今はもう、何もない場所。

「生まれる前でも、あの子は私たちの子どもでした。私は名前まで考えていた。あなたにも見せたでしょう。男の子なら――」

「やめなさい」

「あなたは、仕事が落ち着いたらまた考えようと言いました。けれど、何年経っても病院へ一緒に来てくれなかった。治療を続けたいと言っても、身体へ負担をかける必要はないと――」

「今はその話をしているのではない」

「同じです」

 涙が頬を伝った。

 美琴は拭わなかった。

「私たちの子どもを失った時、あなたは一度も抱きしめてくれなかった。それなのに、華帆の子どもは守ると言ったのですか」

 征士郎の目が冷えた。

 華帆を抱く腕に、わずかに力がこもる。

「お姉ちゃん、もうやめて」

 華帆がか細く言った。

「身体に障るから。赤ちゃんに何かあったら――」

「あなたは黙っていて」

 美琴が向けた声に、華帆は肩を震わせた。

 征士郎が一歩前へ出る。

「華帆に当たるな」

「私は、事実を尋ねています」

「君は感情的になっている」

「妻が夫と妹の子どもを知って、平静でいられると思うのですか」

「声を抑えろ」

「私の子どものことを、あなたは一度でも覚えていたのですか」

 征士郎は答えなかった。

 美琴はなおも彼を見た。

「流産した日を覚えていますか」

「美琴」

「あの子がいたことを、覚えていますか」

 征士郎の口元が硬く結ばれた。

 深く息を吐き、泣き止まない子どもを諭すような目を美琴へ向ける。

「あの子は生まれなかった」

 声に、悲しみはなかった。

 後悔も、迷いもない。

「存在しない子どもと、生きている華帆を比べるな」

 美琴の中で、二十二年間守り続けてきたものが、音もなく崩れ落ちた。

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