LOGIN「お姉ちゃんが、二十二年間一緒に寝てきた人」
華帆の囁きが耳の奥へ入り込み、そこからゆっくりと身体中へ広がっていった。
言葉の意味は分かる。
けれど美琴の心は、理解することを拒んでいた。
目の前にいるのは、三年前、玄関先で震えていた妹だった。
母を亡くし、古びた鞄一つを抱えて、頼れる人はもう誰もいないと泣いた少女。父の写真を胸へ押し当てながら、美琴を見上げた大きな瞳は、行き場を失った子どものようだった。
その妹が今、夫婦の寝室で征士郎の櫛を使い、美琴の耳元へ唇を寄せている。
「……嘘でしょう」
ようやく出た声は、掠れていた。
華帆は顔を離した。
長い睫毛の奥で、瞳が細められる。
「どうして嘘だと思うの?」
「征士郎さんは、あなたの義兄よ」
「戸籍の上ではね」
華帆は化粧台へ戻り、黒檀の櫛を指先で撫でた。
持ち主の癖まで知っているような、馴染んだ触れ方だった。
「でも、私とお義兄さんには血のつながりなんてないでしょう。私がお姉ちゃんの妹だから、そう呼んでいるだけ」
「あなたは榊原家の養女です」
「それも、お義母さまが決めたこと。お義兄さんと結婚したわけじゃないわ」
鏡の前に座った華帆は、自分の髪を一房持ち上げた。
櫛の歯が淡い栗色の髪を滑り、細い音を立てる。
美琴はその後ろ姿を見つめた。
不自然なほど、よく似合っていた。
寝室の色にも、化粧台の鏡にも、征士郎の櫛にも。
華帆はすでに何度もここへ座っている。
誰にも見つからないよう忍び込んだ人間の動きではない。隠す必要がなくなった場所で寛ぐ者の姿だった。
「いつからですか」
「何が?」
「征士郎さんと、そういう関係になったのは」
華帆の手が止まった。
櫛に絡んだ一本の髪を摘み、床へ落とす。
「私が二十歳になってから」
悪びれる様子もなく答えた。
「少なくとも、そういうことをしたのはね」
胸の中で何かが沈んだ。
「少なくとも、とはどういう意味なの」
「言った通りよ」
華帆は鏡越しに美琴を見た。
「私が二十歳になる前から、お義兄さんは私のことを大切にしてくれていたもの」
「病気だったからでしょう」
美琴は咄嗟に言い返した。
声がわずかに大きくなった。
「あなたには治療が必要だった。体調を崩すことも多かったから、征士郎さんは家族として――」
「まだそう思いたいんだ」
華帆が笑った。
嘲るような大きな笑いではなかった。
美琴の必死さを、幼いものとして眺めるような微笑だった。
「お姉ちゃんって、本当に自分に都合のいいことしか見ないよね」
「何を……」
「お義兄さんが病院へ連れて行ってくれたのも、夜中に部屋へ来てくれたのも、私が病気だから。服や宝石を買ってくれたのも、かわいそうな妹だから。二人で食事へ行ったのも、治療の相談があったから」
華帆は一つずつ数えるように指を折った。
「全部、家族だからだと思っていたんでしょう?」
美琴は答えられなかった。
知らなかったわけではない。
征士郎が華帆へ高価な服を買っていたことも、外泊を伴う検査へ自ら付き添っていたことも、美琴は知っていた。
華帆が若い女性らしいものを何一つ持っていないのは不憫だと思い、美琴の方から夫へ頼んだことさえあった。
好きなものを買ってあげてください。
病院の帰りに、美味しいものを食べさせてあげてください。
一人で不安にならないよう、そばにいてあげてください。
自分の言葉で、二人を近づけていた。
「お義兄さんはね、私がお姉ちゃんの妹だと分かった時から、私を特別に扱ってくれた」
華帆は立ち上がり、化粧台の引き出しを開けた。
中から淡い桃色の口紅を取り出す。
先ほど、美琴が洗面台の奥で見つけたものだった。
華帆は鏡を見ながら蓋を外し、唇へ色を重ねた。
「この色も、お義兄さんが選んでくれたの。お姉ちゃんには似合わない色だからって」
美琴の視線が、華帆の唇へ吸い寄せられた。
征士郎が選んだ色。
華帆が夫婦の寝室へ置いていた口紅。
「私に似合わないと、征士郎さんが言ったのですか」
「ええ」
華帆は唇を軽く合わせた。
「お姉ちゃんは地味だから、こういう明るい色を塗ると無理をして見えるって。落ち着いた色の方が年齢に合っているって言ってた」
美琴は自分の唇へ触れた。
今朝つけたのは、薄い紅茶色だった。
結婚して間もない頃、美琴も明るい色を好んでいた。けれど征士郎に、妻が目立つ必要はないと言われ、少しずつ選ばなくなった。
服も同じだった。
髪型も。
身につける宝石も。
美琴が手放してきたものを、華帆は夫から与えられていた。
「妊娠したことを、征士郎さんは知っているの」
「もちろん」
「いつ伝えたのですか」
「検査薬で分かった日の夜」
黒い袋の中にあった二本の検査薬。
華帆はこの部屋で結果を確認し、この部屋で征士郎へ伝えたのだろう。
「征士郎さんは、何と」
「喜んでくれたよ」
華帆の声が柔らかくなった。
ほんの少し頬を染め、腹部へ手を添える。
「最初は驚いていたけど、すぐに抱きしめてくれた。この子は必ず守るって言ってくれた」
美琴は一歩退いた。
背中が寝台の柱へ当たる。
鈍い痛みが走ったが、身体の感覚は遠かった。
征士郎が誰かを抱きしめ、この子を守ると誓った。
自分には与えられなかった言葉だった。
「あなたは……自分が何をしているのか分かっているの」
「お姉ちゃんの夫を奪ったって言いたい?」
「夫だけではありません」
美琴の声が震えた。
「この家へ迎えたのは私です。父の娘だと信じて、最後に残された家族だと思って……あなたが一人で苦しまなくていいようにと」
三年前の冬が鮮明に蘇る。
華帆は安い薄手の外套しか持っていなかった。美琴は自分の毛皮の襟巻きを首へ巻き、冷えた手を両手で包んだ。
初めて屋敷へ入った夜、華帆は広い部屋では眠れないと言った。
美琴は自分の寝室の隣にある客間へ布団を敷き、眠りにつくまでそばにいた。
悪い夢を見た華帆が泣けば、夜中でも起きた。
病院の診断書を読み、食事療法を調べ、治療費を工面するため会社の支出をさらに切り詰めた。
父が生きていれば、きっと同じことをしたはずだと思っていた。
「私は、あなたを妹だと思っていました」
「私は今もお姉ちゃんだと思ってるよ」
華帆は不思議そうに首を傾げた。
その答えに、美琴は息を失った。
「こんなことをしておいて?」
「だから、何も変える必要なんてないでしょう?」
華帆は美琴へ近づいた。
腹部へ置いた手を大切そうに撫でている。
「お姉ちゃんが手術を受けてくれれば、今まで通り家族でいられるよ」
美琴は華帆の顔を見た。
本気でそう言っている。
冗談でも、取り繕いでもない。
「今まで通り……?」
「お姉ちゃんはこの家の奥様。私は妹。お義兄さんは外では今まで通り、お姉ちゃんの夫でいればいいの」
「あなたは、その人の子どもを産むのでしょう」
「誰にも言わなければ分からないよ」
華帆は声を潜めた。
「お義母さまは、榊原家に子どもができるなら喜んでくれると思う。戸籍のことは、お義兄さんが何とかしてくれるって言ってた」
「私に、その子どもを家族として育てろと言うのですか」
「お姉ちゃんは子どもが好きでしょう?」
あまりにも無邪気な言い方だった。
「自分の子どもがいないんだから、きっと可愛がれるよ」
胸を鋭いもので貫かれたようだった。
美琴の指が寝台の柱を掴む。
「華帆」
「何?」
「今の言葉を、もう一度言ってみなさい」
自分でも聞いたことのない声が出た。
華帆の瞳がわずかに揺れる。
それでも、すぐに唇を尖らせた。
「怒らないでよ。私は、お姉ちゃんにも悪くない話だと思ってるの」
「悪くない?」
「お姉ちゃんがこの家にいられるんだもの」
華帆は美琴の袖を掴んだ。
「お義兄さんは、お姉ちゃんを追い出したいわけじゃないって言ってた。今まで通り家のことをして、会社も手伝ってくれればいいって」
「あなたと関係を持ちながら?」
「お義兄さんが必要としているのは私だけど、奥様として役に立つのはお姉ちゃんでしょう?」
華帆の指が美琴の袖を滑り、手を握った。
かつて助けを求めて縋ってきた時と、同じ仕草だった。
「だから、みんなで助け合えばいいの」
甘えるように言う。
「お姉ちゃんは肝臓を少し分けるだけ。私は命をもらって、この子を産む。お義兄さんも失わずに済む」
美琴の掌が動いた。
乾いた音が寝室へ響いた。
華帆の顔が横へ弾かれる。
花形のイヤリングが美琴の手から落ち、絨毯の上で小さく跳ねた。
二人とも動かなかった。
美琴の右手には、打った感触が残っている。
華帆の頬が見る間に赤くなった。
「……叩いた」
華帆はゆっくり顔を戻した。
目を見開き、頬へ手を当てる。
「お姉ちゃんが、私を叩いた」
美琴は息を乱していた。
胸が大きく上下する。
「それ以上、言わないで」
「どうして?」
華帆の瞳に涙が浮かんだ。
けれど、先ほどまでの計算された涙とは違って見えた。驚きと屈辱が混じり、唇が震えている。
「本当のことを言っただけなのに」
「その子を利用して、私から何もかも奪うことを助け合いとは言いません」
「奪ってない!」
華帆が声を上げた。
「お義兄さんは最初から、お姉ちゃんのものじゃなかった!」
寝室の外で足音が止まった。
扉が勢いよく開く。
「何をしている」
征士郎が立っていた。
病院へ向かった時と同じ濃紺のスーツ。額には薄く汗が浮かび、呼吸がわずかに乱れている。車で待っていたはずの彼が、華帆を追って戻ってきたのだろう。
華帆は征士郎を見た瞬間、肩を震わせた。
「お義兄さん……」
弱々しい声へ戻っていた。
征士郎の視線が、赤くなった華帆の頬へ向かう。
次に、美琴の上げたままの右手を見た。
「美琴」
低い声だった。
「君がやったのか」
美琴は手を下ろした。
「華帆が、あなたとの関係を認めました」
征士郎は答えない。
華帆のもとへ歩み寄り、肩を抱いた。
「痛むか」
「少し……」
華帆は彼の胸へ縋りついた。
征士郎は赤く腫れ始めた頬へ指を触れ、傷がないか確かめる。その手つきには迷いがなかった。
美琴が何度熱を出しても、転んで膝を傷つけても、これほど丁寧に触れられた記憶はなかった。
「征士郎さん」
声が震えた。
夫は顔を上げない。
「その子どもの父親は、あなたなのですか」
沈黙が落ちた。
華帆は征士郎の胸元を掴んだまま、美琴を見ている。
怯えた妹の顔をしていた。
だが、その目の奥には確信があった。
この男は自分を選ぶ。
美琴にも、それが分かった。
「答えてください」
征士郎は華帆の肩を抱いたまま、ようやく美琴を見た。
否定しなかった。
驚きもしない。
言い逃れを探す様子さえなかった。
「いつからですか」
「今、話すことではない」
「二十歳になってからだと、華帆は言いました」
征士郎の眉が動く。
それだけで、華帆の言葉が事実なのだと分かった。
「私たちの寝室へ、この子を入れていたのですか」
「華帆の体調が悪い時に、休ませたことはある」
「この部屋で妊娠検査薬を使わせたのですか」
征士郎の目が、洗面所の黒い袋へ向いた。
ほんの一瞬。
その視線が、何より明確な答えだった。
美琴は寝台の柱から手を離した。
足元が不安定に揺れているように感じた。
「どうして」
「美琴」
「どうして、この家で、この部屋で……」
「落ち着きなさい」
「落ち着けるはずがないでしょう!」
美琴の声が初めて大きく響いた。
喉が裂けるように痛んだ。
「私は二十二年間、あなたの妻でした。父の会社を守るために結婚し、この家へ入り、子どもを失っても、会社が苦しくても、あなたと生きていくのだと思っていた」
征士郎の顔から、わずかに煩わしさが滲んだ。
その表情を見た瞬間、遠い記憶が開いた。
白い病室。
消毒薬の匂い。
カーテン越しの淡い朝の光。
十九年前、美琴は腹部を押さえながら、何度も征士郎を呼んだ。
妊娠十二週だった。
小さな命が宿ったと分かった日、美琴は父を亡くしてから初めて、心から笑った。征士郎も喜んでくれていると思っていた。
けれど出血が始まった夜、彼は重要な会食があると言って病院へ来なかった。
流産したと知らされた翌朝、病室に現れた征士郎は、美琴の髪を一度撫でた。
またできる。
そう言っただけだった。
「私たちにも、子どもがいました」
美琴は自分の腹部へ手を置いた。
今はもう、何もない場所。
「生まれる前でも、あの子は私たちの子どもでした。私は名前まで考えていた。あなたにも見せたでしょう。男の子なら――」
「やめなさい」
「あなたは、仕事が落ち着いたらまた考えようと言いました。けれど、何年経っても病院へ一緒に来てくれなかった。治療を続けたいと言っても、身体へ負担をかける必要はないと――」
「今はその話をしているのではない」
「同じです」
涙が頬を伝った。
美琴は拭わなかった。
「私たちの子どもを失った時、あなたは一度も抱きしめてくれなかった。それなのに、華帆の子どもは守ると言ったのですか」
征士郎の目が冷えた。
華帆を抱く腕に、わずかに力がこもる。
「お姉ちゃん、もうやめて」
華帆がか細く言った。
「身体に障るから。赤ちゃんに何かあったら――」
「あなたは黙っていて」
美琴が向けた声に、華帆は肩を震わせた。
征士郎が一歩前へ出る。
「華帆に当たるな」
「私は、事実を尋ねています」
「君は感情的になっている」
「妻が夫と妹の子どもを知って、平静でいられると思うのですか」
「声を抑えろ」
「私の子どものことを、あなたは一度でも覚えていたのですか」
征士郎は答えなかった。
美琴はなおも彼を見た。
「流産した日を覚えていますか」
「美琴」
「あの子がいたことを、覚えていますか」
征士郎の口元が硬く結ばれた。
深く息を吐き、泣き止まない子どもを諭すような目を美琴へ向ける。
「あの子は生まれなかった」
声に、悲しみはなかった。
後悔も、迷いもない。
「存在しない子どもと、生きている華帆を比べるな」
美琴の中で、二十二年間守り続けてきたものが、音もなく崩れ落ちた。
筆跡鑑定人から追加報告が届いたのは、八億円分の保険契約を分類した翌朝だった。久世の事務所へ入ると、机の上には美琴の自然筆跡と、偽造の疑いがある署名を年代別に並べた拡大資料が何枚も広げられている。鑑定人は前より厚いファイルを持参しており、挨拶を終えるとすぐに一枚目を美琴の前へ置いた。紙には二十二年前、十二年前、三年前という三つの時期が大きく区切られ、それぞれの署名の特徴が赤い線で示されていた。「先日の鑑定では、長期間にわたり一つの基準筆跡を模倣している可能性が高いと申し上げました。ただ、資料が増えたことで訂正すべき点があります」美琴は椅子へ深く座らず、背筋を伸ばしたまま鑑定人の指先を見た。先日の鑑定で、偽造署名だけが年月を経ても不自然なほど変わらないと説明された時、自分の名前を一人の誰かが二十二年間練習し続けてきたように感じていた。けれど鑑定人は、初期の契約書、中期の保証契約、直近三年間の医療関係書類を順に指し、それぞれ筆圧の入り方や払いの癖が異なると説明した。「少なくとも三種類あります。同一人物が年ごとに書き方を変えた可能性を完全には否定できませんが、自然な運筆の癖まで比較すると、別人が模倣したと考える方が合理的です」「三人……」美琴は自分の口から出た数字を聞き、胸の内側が冷えていくのを感じた。一人の執着なら、まだ理解の仕方があった。けれど三種類ということは、自分の名前が一人だけの秘密ではなく、複数の人間へ渡されていた可能性がある。鑑定人は最も古い署名を拡大した。二十年以上前のそれは、美琴が十八歳から二十代前半に書いていた字をよく写しているが、「榊」の木偏の入りが不自然に慎重で、本人より線を置く前のためらいが大きいという。中期の保証契約では逆に、形を覚えた人物が速く書こうとした痕跡があり、「琴」の最後の払いだけが本人より強い。直近三年間の医療同意書や面談関係書類は、さらに別の特徴を持っていた。「この三年分だけは、形を写したというより、日常的に筆跡を見ている人の模倣に近いです」久世が眼鏡の位置を直した。「どう違うんです」鑑定人は美琴本人の最近の礼状と、偽造された移植同意書を重ねた。文字の大きさは完全には一致しない。それでも、年齢と服薬の影響で最近の美琴に現れていたごく小さな震え方まで、偽造側が部分的に取り込んでいる。「昔の署名見本だけを渡された
保険会社から取り寄せた資料は、久世の事務所の長机を半分以上埋めていた。契約者名、被保険者名、受取人、保険金額、契約日、増額日、特約、払込口座。美琴は一枚目の証券を手に取ったまま、しばらく文字を追うことができなかった。以前に見つかった生命保険だけでも数億円だったが、今回の照会で契約先が一社ではないことが分かった。社名の違う証券が年代順に並べられ、そのどれにも〈榊原美琴〉という自分の名が記されている。「現時点で確認できた死亡保障の合計は、およそ八億円です」久世の声はいつもと変わらなかった。数字が大きいからといって声を落とすことも、美琴の顔色を窺って言葉を濁すこともない。美琴はその方が助かった。八億円という額に感情を与えられれば、自分までその重さに押しつぶされそうだったからだ。「受取人は全部、征士郎さんですか」「いいえ。個人受取が三件、榊原医療開発が二件、ミコト・アセットが二件です。一部は契約途中で受取人が変更されています」久世が一覧表を差し出す。美琴は指先で行を追った。初期の契約は数千万円規模だった。それが更新や追加契約を重ねるたび、少しずつ増えている。一度に八億円の死亡保障をかければ保険会社側でも不自然に見えるが、二十年以上に分散し、会社の事業拡大や家族構成の変化に紛れさせれば、外からは一つの意図として見えにくい。「最初から八億円だったわけではないんですね」「ええ。長期間かけて積み上げています。大きく増えた時期は三度あります」久世は赤い付箋を貼った三箇所を示した。最初は宗一郎が亡くなった直後。二度目は五年前、冬真の爆発事故が報道された直後。そして三度目は三年前、華帆の肝疾患が急激に悪化し、移植の検討が始まった時期だった。美琴は最後の行に目を止めたまま、契約金額よりも日付を何度も確認した。父が亡くなった直後に保険を増やされたことは、今まで見てきた資産移動と結びつく。冬真の死亡報道後の増額も、すでに見つかった高額保険と一致している。けれど華帆の病状が悪化した時期に、さらに死亡保障が増えていることだけは、どうしても腑に落ちなかった。「おかしくありませんか」窓際に立っていた冬真が視線を向けた。美琴は三年前の契約書を指で押さえ、増額日と華帆の検査記録をもう一度見比べた。どちらも同じ月に集中していることを確かめると、胸の奥に残っていた違和感がますます大きく
久世が用意した一覧表は、長机の端から端まで届きそうな長さになっていた。最初に見つかった十数億円の連帯保証契約だけでも十分に異常だったはずなのに、その翌日から照会先が増えるたび、美琴の名前が別の書類から現れた。銀行、リース会社、医療機器メーカー、病院法人、建設会社。契約の種類も金額も違うが、保証人欄に記されているのは同じ名だった。「三十八件です」久世は感情を交えずに言った。机の上には現在も有効な契約、すでに完済された契約、失効した保証、更新のたびに条件が変わった契約が色分けされている。すべてを単純に合算することはできない。それでも、元本だけを積み上げれば数十億円に達していた。美琴は一覧表へ指を置いたまま、すぐには返事をしなかった。数字が大きすぎて驚けないのではない。むしろ一件一件の金額より、契約日が二十二年間へ広く散っていることの方が気になった。十八歳で榊原家へ嫁いだ直後から、四十歳になる現在まで途切れていない。最近になって突然作られた仕組みではなかった。「全部、私が保証したことになっているんですね」「書面上はそうです。しかも単なる専務夫人ではなく、榊原医療開発と関連会社の資金調達へ継続的に関与した人物として見えます」「共同経営者のように?」「そう評価される危険があります」久世は一冊のファイルを開いた。ある銀行の融資稟議には、美琴について〈創業家に準ずる重要関係者〉〈個人資産を背景とした保証能力あり〉と記載されている。別のリース会社では〈桐生家資産の承継予定者〉という一文まであった。美琴自身は当時、父の信託の存在すら知らなかったのに、貸す側にはその情報が伝わっていた。胸の奥に鈍い圧迫感が生まれた。征士郎が不正を問われた時、自分は何も知らなかったと訴えるだけでは足りない理由が、また一つ増えたことになる。外から見れば、美琴は二十二年間にわたり自らの資産と信用を差し出し、夫の会社を支えてきた人物なのだ。会社の金が不正に動いていたと知れば、なぜ保証を続けたのか、なぜ止めなかったのかと問われるだろう。「私が被害を受けたことと、責任を問われる可能性があることは別なんですね」「ええ。だから、三十八件を一つの塊として扱わない方がいい。いつ、どこで、何のために作られ、あなたがその日に何をしていたかを分けます」久世の言葉を聞き、美琴は自分の手帳と家計簿、資金繰り
非通知の電話が切れてからも、美琴はしばらく携帯電話を机へ戻せなかった。耳元にはもう何も聞こえないのに、「宗一郎さんの手紙を取り戻したければ、九条冬真には黙って会いに来てください」という男の声だけが、妙にはっきり残っている。目の前では久世が通話記録の保存を確認し、冬真は壁際から一歩も動かず美琴を見ていた。隠して会えと言われた以上、この場で黙る理由はなかった。「今の電話、父の手紙を持っていると言いました。冬真には黙って会いに来い、と」冬真の目が僅かに細くなった。「どこへだ」「まだ場所は言われていません」「なら、次にかかってきても出るな」即答だった。美琴は携帯電話を机へ置き、「それはできません」と返した。冬真の口元が硬くなる。以前なら、その顔を見ただけで自分の判断を引っ込めたかもしれない。けれど今、美琴が追っているのは自分の父が残した信託であり、自分の名で結ばれた保証契約である。そこから自分だけが外れることの方が不自然だった。「父の手紙も、信託も、私の名前で作られた契約も、全部私のことです。誰かに代わりに聞いてきてもらうつもりはありません」「単独で会わせる気はない」「私も、一人きりでどこかへ行くつもりはありません。でも、あなたが隣に座れば、相手は話さないでしょう」冬真は答えなかった。久世が二人の間へ入るように資料を閉じ、「では、場所が指定された段階でこちらが条件を組みます」と言った。美琴が交渉の席へ入り、久世と冬真は離れた場所で待機する。通話と位置情報は共有し、何かあればすぐ介入できる状態にする。相手に九条側の警戒を見せすぎず、美琴だけを危険へ晒さないための折衷案だった。次の連絡は一時間後に入った。指定されたのは都心の高級ホテル、その最上階に近いラウンジだった。人目があり、防犯カメラも多い。個室でもなければ、出入口が一つに限られている場所でもない。久世はその選び方を見て、「相手も完全に隠れる気はないようですね」と言った。ホテルへ着くまで、美琴は車内で父の信託関係書類を読み返した。桐生承継信託第一号。四十歳になった美琴へ受益権を移す契約。五年前の保証契約では、その将来受益権を担保予約へ入れたことになっている。さらに崖から落とされた翌日には、健康上の理由で管理権取得を延期し、征士郎を代理人とする申請が出され、その確認者として片桐礼司の署名があった。
ミコト・アセットマネジメントの狭い事務所には、紙の匂いと古い空調の低い唸りだけが残っていた。鍵のかかった書庫から取り出した連帯保証契約書は、久世の前に広げられたまま動かない。美琴はその端へ指を置き、担保欄に印字された〈桐生承継信託第一号〉という名称を何度も目で追った。父・宗一郎が自分へ残した信託の正式名称を知ったばかりなのに、その下には五年前の日付と、保証限度額として十数億円という数字が並んでいる。さらに管理関係者の欄には、九条家と長く対立してきたという片桐礼司の名前があった。「征士郎さんが父の遺産を狙っていたことは、もう分かっています」美琴は契約書から視線を上げずに言った。声を落ち着かせているつもりでも、紙に触れた指先には薄く力が入っている。父の遺産と冬真の事故が同じ紙の上で結びついていることが、まだ現実としてうまく馴染まなかった。「でも、どうして片桐さんがここにいるんですか。冬真の事故にも関わっている疑いがある人なんでしょう」久世はすぐには答えず、契約書を自分の方へ引き寄せた。保証条項、担保設定条項、別紙の信託情報を順に読み直し、途中で眼鏡を外して目頭を押さえる。それから再び眼鏡をかけると、担保欄の一文を指先で示した。「少し違います。信託そのものを担保に差し出した契約ではありません」美琴は眉を寄せた。久世は条文を一行ずつ追いながら、受益権取得時に将来発生する財産的権利を保証債務の担保へ組み入れる予約契約になっていると説明した。宗一郎が信託へ入れた財産を五年前の美琴が直接差し出したのではなく、美琴が四十歳になり受益権を取得した時点で、その権利を担保として押さえられる仕組みだった。「つまり、まだ私のものになっていない時から、将来受け取るものを予約していた?」「そうです。ただし問題があります。契約当時のあなたは、この信託の存在自体を知らなかった」久世の指が署名欄で止まった。そこには、美琴の名を模した署名と実印がある。契約の対象となる権利の内容を本人が認識していないまま、その将来権利だけを担保へ差し出す合意が適切に成立したとは考えにくい。仮に署名が真正だったとしても、何を担保へ差し出すのか説明されたか、本人が理解していたかが争点になると久世は言った。美琴は五年前の自分を思い出した。冬真の死亡報道を見た翌日、何も食べられず、頭が重く、征士郎の用意した
ミコト・アセットマネジメント株式会社の登記簿には、美琴の知らない三年間が整然と並んでいた。設立年月日、資本金、本店所在地、事業目的、代表取締役。どの欄にも不自然な空白はなく、むしろ何も知らない美琴の方が間違っているように見えるほど、会社としての形だけは整っている。久世の事務所で登記記録を一枚ずつ確認しながら、美琴は自分の名前が印刷された代表者欄を何度見ても、そこに自分の人生が存在する感覚を持てなかった。設立は三年前の五月だった。華帆が榊原家へ現れ、美琴が父の残した最後の家族だと信じて屋敷へ迎え入れた、その直後である。事業目的には資産管理、有価証券の取得および保有、医療法人への投融資、債務保証、医療関連事業への出資が並び、本店所在地は榊原医療開発の関連会社がいくつも入居する古い雑居ビルになっていた。美琴はその住所を知っていた。会社の倉庫整理で何度か請求書を送ったことのある建物だったが、自分名義の法人がそこに存在すると聞いたことは一度もない。「株主総会議事録もあります」久世が別の束を机へ置いた。設立時から毎年、定時株主総会が開かれたことになっている。取締役の選任、決算承認、融資枠の設定、関連会社との取引承認。そこにも〈榊原美琴〉の署名があり、実印が押されていた。印鑑証明書まで添付された書類もあり、外から見れば、代表者本人が何年も会社を運営してきたようにしか見えない。美琴は議事録の日付を見て、手元の家計簿を開いた。最初の株主総会の日、美琴は華帆の検査に付き添って大学病院へいた。二年目の決議書の日には、喜和子の法事のため朝から寺にいた。三年目の取締役決議の日には、榊原医療開発の資金繰りが逼迫し、美琴自身が取引先へ支払い延期を頼んでいた。そのすべての時間に、別の場所では美琴が代表取締役として決裁したことになっている。「会社の口座へ、私の旧口座の解約金が入っているんですね」「それだけではありません」久世が画面を回した。銀行から取得できた範囲の取引履歴では、ミコト・アセットへ美琴名義の預金が複数回移され、その金が短期間で榊原医療開発や関連会社へ貸し付けられている。貸付金の一部は返済されず、別の融資へ振り替えられ、損失を表面化させないための穴埋めに使われていた。さらに三つの病院へ資金を供給し、その直後に榊原医療開発が移植関連システムの契約を獲得している。美琴は数字